12/20 隆山
決心といえば、隆山でも決心を迫られている人物がいた。
その人物、柏木梓は、風呂上りでＴシャツとハーフパンツというラフなスタイルのまま、ベッドに寝転がって天井を見つめていた。頭をよぎるのは、耕一の言葉。
『梓がいてくれると助かるんだけど……』
耕一（アイツ）がそんなこと言うなんて……。
梓の心の中にある、耕一を形作るイメージの最初は、一番最初の出会いだった。初めて耕一とであったとき。まるで近所の友達を誘うように、耕一は手を伸ばした。「一緒に遊ぼうぜ」と。思えば、髪を伸ばす機会はいくらでもあったはずなのに、とうとう短いままだった。耕一の叔父に「髪を伸ばせば似合うかもな」と言われても「千鶴姉と同じにしたら、千鶴姉がかわいそうだ」と答えて（当然、その軽率な言葉は、千鶴の怒りによって二度と言われなくなるのだけれど）ていたのは、本意ではない。耕一が初めて見たときのままでいようと思っていたからだ。
そして、その耕一が自分を必要としてる。何のために？ それに私はどうやって答えればいい？
ゆっくりと起きあがる。まだ少しだけ濡れている髪を乾かすため、バスタオルに手を伸ばす。ふと、その視線の先にあるものを見つめた。それは、古ぼけた小さい一組の運動靴。それを手に取る。
『こーいち！』
思い浮かぶのは、自分がケガしてのにもかかわらず、泣きつづける梓の手を引いて帰る耕一の後姿。あの時、確かに耕一は自分のために水門の湖に飛び込んだ。今年の夏も……そう。いつだって、無茶しようとする私に耕一は付き合ってくれた。
「今度は、自分の番だよね」
そうつぶやく。答えは最初からわかっていたはず。そう、私が行かないとね。あの耕一（バカ）は何するかわからないじゃない。梓は準備をし始めた。旅支度は陸上部の合宿で慣れている。
一時間後。４部屋続きになっている部屋の端の住人、すなわち初音は、明日の授業の宿題をこなしていた。あと１ページ書いたら休憩しようと思った矢先、ドアをノックする音に気がついた。
「誰？」
ドアがおずおずと開かれて、梓が顔を覗かせた。
「梓お姉ちゃん、どうしたの？」
梓は静かに部屋に入った。人差し指を口元に当てる。
「しーっ。楓に気づかれたくないからね」
「一体、どうしたの？」思わず初音の声も小さくなった。こういったところでは素直なところが末娘のよい所だ。反面の怖さはあるのだけれど。
「うーん」
初音に言いづらそうにしていたが、意を決したらしい。
「初音」
「なに？」
「明日から何日か、朝と晩ご飯の準備をお願い」
「えっ、お姉ちゃんがしないの？」
「うん」梓はちょっとだけためらった後、「ちょっと耕一の所に行ってくる」
「えーっ！」思わず大声を上げそうになる初音の口を、梓は慌てて押さえた。
「しーっ」
「ご、ゴメン……」
「あ、あのね。明日の朝ご飯は用意していくけど、明日の朝一でＪＲで行くから」
「う、うん……千鶴お姉ちゃんには言ったの？」
「千鶴姉にはナイショだ」
「えーっ！」大声を出しそうになるのを慌てて小さくして、「怒られちゃうよ」
「いいんだよ。千鶴姉に怒られるのは慣れているから、さ」梓は笑って、「頼める、初音？」
「う、うん……いいけど」初音は疑問を口にした。「どうして、耕一お兄ちゃんのとこへ？」
「ゴメン、初音。まだ言えないんだけど、大丈夫。ちょっと耕一のことで、ね。頼んだよ、初音。アンタだけが希望なんだ！」
「わ、わかったよ……」
理由も何も言わないで、強引な口調に押された初音はちょっとビックリしつつもそう答えた。梓は「それじゃね」と言って部屋を出ていったが、初音は一人、つぶやいた。
「やっぱり抜け駆けじゃないかのかな……それって」
明朝、千鶴が身支度を整えてから居間に行くと、初音が食卓の準備をしていた。
「おはよう……って、あら初音？。梓は？」
「な、なんか学校で朝練が、ある、からって……」
「そう。推薦決まったから余裕でもあるのね」さほど気を向けず、千鶴は座った。
楓も「おはよう」と言いながら食卓につく。梓が陸上部で頑張っていたころは、よくあったことなので、千鶴は深くは考えていなかったのだろう。一方の楓は、玄関においてある梓の陸上シューズのことに気がついていた。
……梓姉さんが陸上部の練習に行くのにシューズをもっていってない？
楓はジッと初音のほうを見た。初音がその視線に気がつく。
「ど、どうしたの？ 楓お姉ちゃん」
「いや、なんでもないよ。……いただきます」
「いただきます」千鶴の唱和に、初音もあわてて「いただきます」と答える。
こうして、柏木家の朝は、なんとか平凡に進むかに見えていた。初音はいつまで続くのかな？と思っていたにしても。
同時刻 隆山駅。
「もしもし、耕一？ 私、梓だけど。うん、あ、あのね、これからそっちの方にいくから。うん、多分昼過ぎぐらいじゃないかな。場所？ 大丈夫、前に教えてもらっていたからね。うん、そう。それじゃ、今日、迎えにきてれるの？ ありがとう。……うん、うん。じゃ待っている。それじゃね」
梓はそう行って、公衆電話の受話器を置いた。足元においたスポルディングのバッグを肩にかけて、駅の改札口のほうへ向かう。
「大丈夫かな、初音」梓はぽつりと漏らした。
同時刻 Ｆ市
ゆっくりと手が天井に伸びた。窓から指しこむ明かりで、手のひらが透けているような錯覚がする。
「どうしたの？」けだるげな声が聞こえた。女性のものだった。
「こうして今ここにいることの意味を」男の低い声。
「私には貴方が必要なのよ。それだけの意味では足りない？」
「どうだろう」
その答えに、横に寝ていた女性……加世が身体を起こした。一糸纏わぬ姿。その腹部には大きな痣のような印がある。刺青とも、昔の傷痕とも違う、なんとも形容しがたいもの。男性……巳継が伸ばしていた手を、その痣のような印に這わせる。
「ん……」まるで敏感な場所を触られたかのように、加世が反応した。
「本当に、キミはそれで良いの？」
「何を？」
「過去を紡ぐ術を身につけて」
「そうね」加世はその手を巳継の胸に伸ばす、ゆっくりと、まるで何かをいとおしむように、それでいて、我が物とするかのように。「でも、貴方は居てくれるのでしょう？」手はゆっくりと巳継の下腹部に伸びる。
「うっ……」
加世は、ゆっくりと身体を巳継と重ねる。その唇は、ゆっくりと巳継の肌に触れていく。
「愛しているわ。にいさま」
「か、加世……」
「もう、離さないから……」加世は何かに耐えるようにしている巳継の顔を見ると、女性の本質的な何かに訴えかけるものを感じた。それは、母親がもつある種の残酷さ、もしくは圧倒的な優位にたつ女性だけが持ちうるある種の特権というべきシロモノだった。
「うっ……」
部屋は、意味を成さない悦楽の音だけが支配した……。
12/21 Ｆ市駅前ターミナル
梓が耕一のいる街にやってきたのはもう昼過ぎだった。待ち合わせ場所は駅前と耕一と決めていたので、梓としては待つしかない。今ごろ千鶴姉、怒ってるだろうな。梓はふとそのことに考えが及ぶと頭をふった。考えることすら恐ろしいことが待ちうけているかもしれない。
……でも。
あの時、電話口で耕一が梓に向かって言った言葉。「梓がいてくれると助かるんだけど……」という言葉。それだけで梓には十分にくる意味があった。
必要とされている。ただ、それだけで梓は良かった。そして、それだけでは満足できない自分がいるのも梓は知っていた。それに対して目をそむけるわけではなかったが、彼女はなるべく考えないようにしていた。それを考えてしまう自分が嫌だったのだ。
……誰ヨリモ、私ダケヲ見テホシイ。誰ヨリモ、私ダケヲ愛シテホシイ。私ダケヲ抱キシメテホシイ。
……いけない、そんなこと考えてちゃ。梓はそのもやもやした何かを振り払うかのように頭を振った。不意に声がかけられる。
「梓、大丈夫か？」
「こ、耕一！いつからそこに」
「今だけど、大丈夫か？ 具合が悪いのか？」
「だ、大丈夫だよ。本当に」
「そうか、それならいいけど……」
半年ぶりに出会った二人は、とるものもとりあえず大学へ向うことにした。その道すがら、
「千鶴さんにはちゃんと断ってあるんだろうな」
「も、もちろん。したに決まっているだろ」
「そうか」
耕一は、ちらりと梓の横顔を見た。明らかに嘘をついていることがわかる。
……本当にウソをつくのがヘタだなぁ……まぁ、いいや。俺から千鶴さんに電話を入れておこう。
梓が耕一の方を見て、言いづらそうに聞いた。
「……でも、どうして耕一がそんなに事件に肩入れするの？」
「もし」耕一が立ち止まった。「あのとき、俺がバイトの予定を変えてもらわなければ、榎本のやつは死ぬことはなかった。そりゃ、そんなことになるなんて思っても無かったさ。だけど、だからって、はいそうですか。と済ませるわけにはいかない……梓、これじゃ答えにならないか」
梓は耕一の真剣なまなざしを受け止めた。言葉だけではない、その目には何かの決意が見えた。それは言葉以上の何かが耕一の心にあるのを知るのには十分なものだった。
「ううん。耕一らしいよ」梓はにっこり笑った。「耕一はやっぱりそうでなきゃ。私に出来ることはなんでもするからさ。それよりも、さ」すこしだけ頬を染めて、
「何？」
「どうして私を呼んだの？」
「どうしてって……」耕一は少しだけ考え込んだ。「千鶴さんは、鶴木屋グループの会長だ。そうそう仕事を放り投げられるわけがない。楓ちゃん、初音ちゃんはそれぞれ学校だろ。高校一年、二年じゃ年末近いといってもすぐに出られるわけじゃない。梓はウチの大学から推薦の話が行っているんだろ？ 時間なら少しぐらい取れそうだし、もうすこしで冬休みってのもあるから」
「それだけ？」梓の目が細くなった。
「うーん、あと美味い飯が食べたくなったってのもある。最近コンビニ弁当ばっかだったし」
「……それだけ？」梓の手が握り拳をつくる。
「あーあー、あとね」
今度つまらない答えを返したら殴り飛ばしてやる。そう思っていた梓の予想とは別に、ふいに耕一が彼女のほうへ手を伸ばした。髪の毛を触る。
「やっぱ会いたかったから、ってのが一番の理由だな」
「ば、ばか」
梓が顔を真っ赤に染めてうつむく。何事か、耕一が言おうとしたとき、遠くから声が聞こえた。
「おーい、柏木君！」
……せっかくいい雰囲気だったってのに！ 梓の恨みがましい視線に気がついたか否か、声をかけてきたのは由美子だった。
「なぁーに、彼女なんて連れてって、あら、あなたは」
「柏木梓です……って、一度お会いしてますよね」
「あの時の！」由美子はパッと明るくなった表情を見せたが、耕一のほうをちらりと見た。「で、どうしてここにいるわけ？」
「陸上部の推薦入学の誘いを受けてるの」
耕一が事前にこうなることはわかっていたんだ。とため息をつきつつ答えた。一方で、梓ではなく他の三人だったらどう言いべきか悩んだのは想像に難くない。
「それの下見さ。一応、梓は地元でも有名な陸上選手（アスリート）なんだぜ」
これは事実だった。『鬼』の力を具現化せずとも、梓の身体能力はもともと高い。『鬼』の能力を具現化した場合、もっともすばやいのは楓のほうだった。
「そうなんだ。でも、こんな時期に大変よねぇー」由美子はすこし憂いた顔を見せる。「ま、ゆっくり見ていってよ。何かわかんないことがあったら、柏木君じゃなくて私に聞いてね。美味しい甘味所、知ってるから」
「あ、ありがとうございます」
「いいのよ。困ったときはお互い様」そう言った後に由美子は用件を思い出したらしい。「そうだ。それでね、柏木君。榎本君の葬式の日取り、決まったって」
「そうなのか」
「ええ。今日、通夜だって」
「それじゃあ、今日、顔をだしとかないとな」
「そうね」それから耕一と由美子は、ニ、三の待ち合わせのための打ち合わせをしてからわかれた。
耕一は頭をかきながら梓に、
「悪いな、せっかく来てもらったのに」
「いいよ。晩御飯作って待ってるから行ってきなよ……ところで、喪服とかあるの？」
「母親の葬儀の時にね……親戚の人に作らされたよ」
「……御免、気がつかないで」
「なにも謝る必要はないさ」耕一はそう言うと、「ところで梓、お前ホテルとか取る？」
「……取って欲しいの？」
「い、いや……」
「なら、耕一の部屋に泊まるよ」
「あ、ああ」すんなり言いきった梓に押された耕一は、それだけを言うのが精一杯だった。
学部棟から耕一と梓のやり取りを見ていた巳継が、コーヒーに口をつけた。自分の方に近づいてくる小出由美子に手を上げる。
「やぁ、小出さん」
「遠島時くん！ あれ、加世さんは？」
「俺、彼女の保護者じゃないんだけどね」
「ウソ。同棲しているの、知っているよ」
「マジ？」巳継は頭を抱えた。「そんなわけじゃないんだけどなぁ」
「ウソよ。『妹みたいな存在』なんでしょ？ 本当は加世さんの方が年上なのに」
「そうなんだ」
巳継は困ったような笑みを浮かべた。中性的な顔立ちのせいもあってか、世の中の女性の大半は、かわいいと感じるような笑み。由美子も思わず顔を染めてしまうほどだった。
「ところで、」巳継は歩いていく耕一と梓の後ろ姿を指差した。「彼、柏木君の横にいるのは誰？」
「ああ」由美子は答えた。「柏木君の従妹よ。推薦入学の誘いを受けたから、その下見だって」
「へー」巳継は何気ない返事をしたが、由美子の変化は見逃さなかった。
「ねぇ、小出さん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな？」
「へぇー、ここが耕一のアパートか」梓は、スポルディングのバッグの他に近所のスーパーで買いこんだ食材を手に持ちながら、耕一のアパートを見上げた。静かな住宅街の片隅にある、どこにでもあるようなアパート。
「まぁ、家賃もほどほどだしね」
「ふーん」
部屋のドアを空けると、そこにあるのは……お世辞にも整理整頓とか、綺麗という言葉にはほど遠い有様の部屋だった。
「あーあ、汚いなァ」
「悪かったな。ここんとこバイト続きで部屋には寝に帰るだけだったし。……だからホテルでも……」
「いいよ！」梓は耕一の言葉をかき消すように、「私が片付けてあげるから」
「いや……」
「いいの！」 梓は耕一を急き立てた。「さっさと着替えて出たら？」
「あ、ああ」
耕一がクローゼットから喪服をとりだし、着替えている間に梓は台所をチェックしていた。
「耕一、普段あんた料理してないでしょ」がさごそという音と共に、「鍋も一つしかないし……。まぁ、包丁と食器がちゃんとしているのだけ、マシか」
「一人暮しで料理なんてしないって……」
出てきた喪服姿の耕一のネクタイが曲がっているのに気がついた梓は、「もう、しっかりしないと」といいつつネクタイを直す。
「行ってらっしゃい」
「ああ、行って来ます」
梓のペースですっかり乗せられた耕一が、そうであることに気がついたときには待ち合わせの場所に向かっている途中だった。
「まぁいいや。電話するにはいい機会か」そうつぶやくと、近くの公衆電話のあるコンビニに足を向けた。隆山の千鶴さんに梓のことを言っておかねばならない。
同時刻 隆山
「……梓ったら、勝手に家を飛び出して耕一さんのほうに厄介になってたんですか！」
プンスカ怒っている。という表現が一番合いそうな表情で千鶴が電話口に出ていた。梓から聞いていた初音は、初耳というそぶりで「えー、そうだったの！」という表情をうかべながら、夕食を支度している。先に席についていた楓がポツリと漏らした。
「初音、知っていたのね」
「あ、あのね……楓お姉ちゃん」楓の妙に冷たい視線を感じた初音は、急におどおどした仕草だった。
「知っていたのね。梓姉さん、耕一さんの電話受けてから何か考えてこんでいたようだし」
「……うん」そこまで知られてはもう隠し等せない。
「……はい、耕一さん、いいんですか？ ……ええ、そうですか。それならいいんですけどぉ」
語尾がちょっと曖昧なのは、恐らく拗ねていることを耕一に知らせようとしているせいだろう。楓は姉が時々子供ぽいところを、特に耕一だけに見せることに気がついていた。
「まぁ、いいけど」楓は初音に向かって、「梓姉さんが無理やり貴方に食事の用意を押し付けたってことにしておいたら？」
「え、でも……」
「千鶴姉さんにバレたら、後が怖いよ。怒られたくないでしょ？」
「う、うん……」
千鶴が耕一との電話を終えて、食卓につくと、不機嫌そうな顔をしていた。「いただきます」の唱和。三人の箸が動き始める。
「初音」
「は、はい」
「しばらくの間、食事の準備お願いね。忙しいなら私も手伝います」
「だ、大丈夫だよ。う、うん。仕事忙しいでしょ？ 楓お姉ちゃんもいるし」
こくこく。今度ばかりは楓もはやくうなづいた。
普段はにぎやかな柏木家の食卓が、この日の夕食に限ってはやけに静かだった。三者三様に思うところがあるせいだった。三人は、夕食を無口で食べ直るとすぐに自分の部屋に篭った。